みどみどえっくす

元NO.1風俗嬢がゲスに真面目にエロを語る

「愛している」は、また今度。。。

お久ぶりです。

こんにちは、こんばんは、おはようございます。そしてあなた、初めまして。

先日手術が終わって、現在療養中でございます。

せっかく療養しているんだから、この際スマホとかいらないかもねと思い、ツイッターのアプリ消去から始まって色々と電子機器に触れるのは久しぶりですの。

と言ってもここ何日か、ですけど。

 

わりとツイッターなんかも、通知が来てるとつい見ちゃうんですよね。

でも情報化社会で電子機器に触れないっていうことが、今後の人生でもしかしたら今しかないんじゃないの?と考えたら、一旦離れてみるのは本当に良い機会だなって。

と言ってもここ何日か、ですけど。

LINE、メール、DM、リプライくださっていた方、先に言っておくべきでした。

心配かけてごめん。生きてます。生きてます。生きてます。

そして返信していなくてごめん。生きてます。生きてます。生きてます。

 

一度放り投げてみると、こんなに小さなスマホ一台に、こんなにも制限されていたのかとキョーガクした次第です。

自由だった。素敵だった。

ただそう思えるのは、今病院の中で守られているからで、自分の居場所も確保されているし、待っていなくとも誰かしらがお見舞いに来てくれるのが分かっているからなんですよね。

気にかけてくれている人がいるという事実が、今日も明日も明後日も明確だから。

SNSにおいても、待っててくれる人が少なからず1人はいるという自負があるから。

そう考えたら、安易に「スマホに制限されていた」と言ってしまうのは、ただただ反抗期の子供みたいだなって。自分に対してそう思いました。

 

例えばSNSの場合。

情報を取捨選択していく権利を与えられているにも関わらず、その権利を放棄して、放棄したのは自分にも関わらず、抱えきれない過多な情報に疲弊し消耗し、挙げ句責任の所在を全てSNSにぶん投げてしまう。

これが出来るのは、少なからず守られている自覚があるから。

でも本質はSNSが悪いんじゃないし、SNSが疲れるんじゃない。

そもそも情報選択の術があるにも関わらず、「SNS疲れ」という言葉に任せて「もう疲れた、もう嫌」と責任の所在を全てSNSに転嫁してしまい、挙げ句情報選択においての権利意識が低いのもまた諸悪。

権利意識が強い人は苦手だけど、文句言うくらいならそこの権利意識は強く持とうよと。

そして受動と能動を履き違え、権利という言葉を誤想し、ネットリテラシーの低い人は文句ばかりをつらつら述べる。

無論、私のことです。(胸の辺りで自ら小さく挙手)

 

今自分がSNSにおいて一番考えなくちゃいけないのは、SNS各種あるいは玉石混合な情報にどうやって向き合っていくかで、その上で情報は「善・悪」「正・誤」だけでなくグレーの存在があると認めることだと思う。

正解でも不正解でもない、地味な本質を見極めること。

そして本来、情報の価値を判断するには、まず要らない情報をどんどん捨てていかなければならなくて、残ったものの中から自分に合う正解を抜き出す作業が必要だと思ってる。

しかしこれがネットリテラシーの低い自分にとっては、極めて難易度が高く勇気がいる作業。

自分はグレーを認められず、ほぼテンプレで判断してしまう傾向にあるから。(最近は幾分かマシかも・・・)

ビックリしますよね。

それが出来ないから苦しんでるんだけど。

だからSNSに自分の居場所を求めてしまうのは、極めて危険な行為なんだよと。

だってライトで無責任な情報ばかりに飲み込まれたら、疲弊して心が死んでまうってば。

あっちではこう言ってる。こっちではこう。挙げ句、会ったこともない人の心無い一言に、モロに傷ついてしまう。

 

少々小さい事を言わせてもらえば、自分の場合は手榴弾のように飛んでくるアンチやクソリプの一言一言に(ツイッター)、とんでもなく疲弊してしまったり逆にプレッシャーを感じてしまって、何をつぶやいたらいいのか、何を書いたらいいのか、全く分からなくなってしまった。

次は何と言われるのか考えると、怖くて。

そして自分はそんなつもりはなくても、全く意図しない方向に捉えられたり、言葉、更にはコミュニケーションっていうのは本当に難しいなと感じることが多々ある。

本来ならば、自分が発した言葉っていうのは全責任負うべきだという考え。

だから自分の発した言葉についてのレスポンスを、自分から終わらせるのは無責任だと考えるので、アンチもクソリプも無下に出来ないし、ブロックって本当にしづらい。

しかしその反面で、そういう場合には「もう返信が返って来ませんように」と願ってる自分もいる。

最悪ですよ。なんかおざなりだし口ばっかだなって。

そのハッタリは、極めて無意味で綺麗事。

そして「あぁ、そういう捉え方されちゃうのね・・・」っていう出来事が続くと、怖気づいてハリボテな言い訳しか出来ない自分が、いよいよ辛くなってくる。

もっと堂々といたいですよ。

でも、そんなに前向きじゃない。

面倒だな、だったらもう構うなよほっとけよ。そう思っちゃうような人間なんです。

だからコミュニケーションは向いてないし、SNSはもっと向いてない。

挙げ句「しょーもな」と思ってしまう自分もいるわけです。

でも受け手の感じ方はそれぞれで、色んな意見があって当たり前。

無責任なクソリプ以外は、批判的な意見も受け入れて然るべきだと思う。

場合によっては、そういう表現しか出来なかった自分を嘆じることもある。

ここについては、色んな気持ちが錯綜しているような感じ。

 

ツイッターに関して更に言えば、数値化されただけの「共感」「共鳴」、指先だけの「いいね」に必要以上にプレッシャーは感じないでいたい。

でも「ハート」はちゃんと受け取りたいし、受け取ってほしい。気持ちだから。

そして、バロメーターがあったらもっといいよねと思う。

ひとつも「いいね」がついていないツイートに、「100いいね」つけたい共感を抱くときだってあるもの。

逆にバズってるツイートが、全く味気なく感じるときだってある。

何なら日に何度もTLに上がるソレに辟易して、ミュートをかけるときすらある。

そういうもんですよ。

大事なのは共感の数じゃなくて、共感の「濃度」だと思ってる。(と、ツイッター界もといニンゲン界の藻屑が申しております・・・)

リアクションにくだらない義務感だって、抱く必要はないかなとも感じた。

 

かくいう私も、ツイッターにはとても助けられています。

例えば悲しいとき。

友人が少ないし、リアルだとあまり愚痴を言えない性分なので(意外でしょ)、泣きたくても泣けないし気持ちが浄化、消化出来ない場合が多い。

苦痛な時間をひたすら苦痛な時間で上書きして、濃度が薄れていくのを待つしかないんですよ。

そういう時にツイッターで仲良くしてくれているあの子やアイツは、いつもわざわざ気にかけてくれて、直接的な関与はないにせよ、笑わせてくれたり励ましてくれたりする。

「愚痴はどんどん言いましょう!」と積極的に声をかけてくれる人もいる。

それでもなかなか言えないんだけどね。なんでかな。

愚痴を言うにはそれ相応の責任を背負うべきで、更に状況の不満を嘆くっていうのは自分の責任を回避し、挙げ句自分自身の否定にもなりかねない。

結局利己的で自分が可愛いんだね。だから安易に「本格的な愚痴」はなかなか言えない。大抵、諸刃の剣でしかないから。

でも逆に、嬉しい気持ちを共有してくれる仲間が多いのも、ツイッターなんですよ。

このツイート見てほしいっていう人の顔が、画面の向こうにまず浮かぶ。

その人が「いいね」でハートを届けてくれると、本当に嬉しいもの。

更にはリプ欄、通知欄にお顔(アイコン)があると、なんでか安心してしまう。

あなたのことだよ。いつも本当にありがとう。 

 

とにかく、不必要な情報を取り込み、得体の知れない何かを消耗する余力があるのなら、それより先に誰かの所に実情のあるハートを届けたい。

「もっとこうして欲しい!これは嫌!」よりも「人の為に何かが出来た」に重きを置けるほうがいいかなって、ここまで語っておいてそれすら漠然なんだけど。

満たされない欲を嘆じるよりも、自己の本望に浸る甘美な人生でありたいですよ。願望はね。

その為にはやっぱり、取捨選択の技術は必要だと思うわけなんです。

 

何でか今日は、中学生のSNSの使い方授業みたいな内容になってしまった。

無論、その中学生とは私です。

常々頭の中では、こういう誰しもが当たり前に分かっているようなことを、延々と考えてはウジウジと悩んでいます。

どうです?幼稚でしょう。

でも、次回はとびきりエッチなのを書きたい。

「大人の女」にしか書けないようなものを。(とか言っておいて、また「糞」とかそっち方面のような気もしなくもない。てか絶対そう。)

とにかく今日言いたかったことは、生きてます。生きてます。生きてます。

これからまた、少し寝ます。

ではまた、ごきげんよう。いつも本当にありがとう。好き。大好き。

だけど「愛している」はまた今度。。。