みどみどえっくす

元NO.1風俗嬢がゲスに真面目にエロを語る

願いに対する渇望の果てに

長い間、独りでした。

中学までは保健室登校だったし、実の両親にはネグレクトと虐待を受けていて、居場所が本当に無かった。

唯一心休まる1人の登下校でさえ、地域の人間から「あれ、もう帰ってくる時間?早いね?」と聞かれる始末。

保健室登校なので、一般クラスと時間が違うとは言えなかった。

そして食事をまともに取れない時期が続いたため、今でも時折、冷蔵庫の中が腐るほどの食糧で埋まっていないと、不安と絶望が心の中で風船のようにパンパンに膨らむ。

到底自分だけでは食べ切れず、腐らせるだけと分かっている量を、罪悪感と嫌悪感から泣きながら調理することもある。

冷蔵庫の隙間は、自分の心の隙間と直結している。冷蔵庫の隙間1センチが、自分の心を1センチずつエグる。

親?友達?友情愛情?ナニソレ?ってカンジ。慕情や慈愛なんてものも、自分の中には存在しなかった。

人を真剣に思いやり、心の底から愛し愛され、孤独なんて文字が何処にもない、そんな人生は自分にとってはリアルには感じられない。

終わりの見えない孤独や、死にたいほどの苦痛がない人生の方が嘘っぽく、薄ら寒くて笑えた。

小学6年、中学2年の時に自殺未遂をした。左手首に痕が二本、今でも残っている。

もう完全には消えないのだと、ここ2、3年でやっと諦めがついたところである。

そして今自分は、大学時代に患ったうつ病を乗り越えた挙げ句、過去のトラウマによるフラッシュバックから、未だ眠れない夜を酒で濁すことも多い。(今現在は退院後のため、禁酒しておりますよ。)

 

最近、あるフォロワーさんからDMをいただいて、やり取りをする機会がありました。

その方は私と同じく「性的嗜好障害」、すなわち「糞尿愛好」を持った人なのだけど、一般としてTwitterを使用していること、あとは書き口などから個人をにおわせるのを防ぐため、プライバシーの観点からスクショの記載はしないでおきます。

やり取りをざっくりと言えば、こう。

「僕もミドリさんと全く同じ性癖を持っています。

僕の場合は立場上、あからさまには言えないので、専門店を利用したり、性生活の中で性癖をカミングアウトする機会はあっても、なかなかその根本的な経緯や、自分の気持ちまでを分かってもらえることが少ない。というか、ない。

けど、ミドリさんの記事を読んで、とても共感できました。

僕も、自分の性癖の根底には悲しさがあります。それがこじれて歪んだ結果が、今です。

とても理解されにくい、言えない。だから、僕は、今まで自分の歪んだ性癖やそこに至る寂しさや悲しさが何なのか、本当によく分からなかった。

なぜ、アブノーマルや性癖がこんなに悲しく孤独なものであるのか、自分のことであるにも関わらず、理解が出来なかった。

だけど、ミドリさんの記事を読んで、心の鉛が溶けたように感じました。

結局は、僕はアブノーマルには変わりないのだけど、ミドリさんの記事を読んで自分の気持ちが分かったから、自分と対話できるようになったから、そういう悲しさや孤独感も含めて自分なんだと、やっと受け入れられるようになりました。」

ということだった。

ちなみに該当記事はこちら。

 

www.midomidox.com

 

 

私が持つ糞尿愛好という嗜好は、一言で言えばアブノーマルなのだけど、精神医学によると立派な精神疾患らしい。その症状名が「性的嗜好障害」という。

こういったプライベート性の高い嗜好については、元々理解されようとは思っていないために、なかなか共有することが出来ないし、するつもりもない。

けれども、根底にはやはりマイノリティであるという、コンプレックスと似通った感情があり、そのコンプレックスがもろに自分の情緒に反映される結果になることも、多々ある。

 

 

糞尿を愛すようになってしまった私も、今思えばそこに至るまでには色々な葛藤、経緯があったように思う。

心の傷口から絶え間なく湧き出る膿のように、いつまでたっても止まらず、拭いきれない慢性的な寂しさと、圧倒的なまでの自己嫌悪感。

到底自力で這い上がれない、暗い暗い地の底にいるようで、私はいつも、やり場のない感情に首を絞められ、あがいていた。

しかし日に日に薄れていく自尊心の中で、いつも、それでも人を好きになってみたいという微かな願いだけはあった。

だが、愛し方がわからない。

そもそも、自分はそういう感情を持ち合わせていないように思えた。

更に言えば、多分、人を愛するとかそういう前に、人の事が嫌いなのだと思った。

深い葛藤とやりきれない倦怠感の中で、もう自分はダメなのかもね、と思った時に 「糞尿愛好」 に出会った。

近頃Twitterに寄せられるいかがわしいDMについて、思う事を書いていきます。 - みどみどえっくす

 

 

その結果私の示す愛は、いつでも根底に「悲しみ」を孕むように思うし、それがなければ私は、人を慈しむことが出来ないのだと感じるようになった。

なかなか理解されづらいフェティシュを持ち、愛に飢えた過去だったからこそ、より一層根が深いものになってしまったのだとも思う。

愛を求めれば求めるほど、誰かを愛したいと思えば思うほどに、「抱きしめたい」という比較的プラトニックな感情さえも、どういうわけか加虐性を帯びる愛へと変化していく。

深い悲しみから及ぶ人間愛、そして常に愛とイコールで繋がれる加虐性に、ほとほと困り果てるときもあった。

しかし、今更自分ではどうにも出来なかった。

どうしても人を愛せない苦悩や葛藤、自己否定は、糞尿が解決してくれたのでありまして、私はそこに自分の愛の価値を、全て置かざるを得なかった。

自分自身の戸惑いに反して、糞尿によって確立されていく自己同一性と、そこから及ぶ圧倒的自己肯定。

ですので、私はこの底辺に置かれる「悲しみ」は、「愛しみ(かなしみ)」と呼ぶことにしているのですよ。日本語には豊かな味わいがありますね。

 

  

実はこういったのも、自分は子供が非常に苦手であるというコンプレックス(甥は除きますよ)から来ているものでありまして、更には結婚出産を望まない自分にとってのエゴによるところが大きい。

私の語る愛とはいつでも、エゴイズムが介入した愛なのである。

そしてこんな自分でも他人を愛せるのだという、自己肯定感の置き所の対価として、スポンサー料を支払っている。例えその愛や自己肯定感が、偽りであったとしても。

ですからここにきて、「偽善」というのは利己心や虚栄心の上に成り立ってこそなのだな、とつくづく感じているところなのである。

たぶん、幼少期からの経緯がなければ、私は今より更に愛(や偽善)に鈍感な人間だったのではないだろうか。

今現在、他人とのコミュニケーションが円滑であるとは到底言い難いし、むしろ相手の気持ちや感情の部分を汲むのが本当に苦手であるから、愛について語る資格はないと自覚はしている。

ですので、それは考えるだけ不毛なのではあるが、しかしながら実際問題、自分自身が抱えるフェティシュから学ぶこともとても多い。(多かった)

セックスがしたいという下心はありつつも、恋愛に関しては相手を拒絶してしまいテンで駄目なのであるが(心を通わせるという意味で)、しかし糞尿がなければ今頃更に荒んだ人生だったのだろうかなどと思うと、糞尿に救われた感じは大いにある。

それからもう一つ、私が思う愛とは「願いに対する渇望の果て」なのでもあります。(宗教っぽくてごめんなさいね笑)

「愛」について連呼しておりますと、さぞかし恋多き女だと思われがちなのですが、実はその方面は苦手ですらありまして、私は何故だか、恋愛を通して他人と心を通い合わせるという行為に大変な恐怖を感じます。

私が実りのないセックスをアホほど繰り返すのは、コンプレックスの解消に繋がるわけなのであります。こんな私でも人を愛することが出来るのだと、そう思いたい。

セックスのときだけは、そのコンプレックスが薄紙を剥ぐように少しずつ少しずつ、薄れていくように感じるし、泥にハマった足を抜きあげられたように、行き場のない焦燥と嫌悪から解放された心が、少し軽くなるものでもある。

ヘテロセクシャル(異性愛)に嫌悪を抱きますが、ホモセクシャル(この場合は女性も含みますよ)でもない。けれどもセックスを通して自分の中の人間愛を肯定してやりたいなどと、とても矛盾を含んだ思考であるのは理解した上であるが、これでもいつか、普通に人を愛せたらという願いはあるのですよ。 

そんなことをお相手の方とのやり取りで感じたので、備忘録として再度記しました。

 

今日は「糞尿」というニッチワードが満載でしたね。非常にすみません。

ま、このDMをやり取りした方は、異性ではあるのだけどさ。

結果、共感共鳴と傷の舐め合いみたいになっちゃって、全然興奮しなかったよ。ちくしょう。

とても親友みたいになってしまった。シェイシェイ。

ホントに色んな出会いがあるよなあ。では、また。